第1章
生いたちから大邱、女子美術専門学校時代
生い立ち
私は一九一六(大正五)年、朝鮮の
大邱に生まれました。父は山口県萩市の出身、生家は毛利藩士で、明治維新後は海外に出向き貿易商を営んでいました。父は一九二二年、私が六歳の時、四歳と一歳の妹二人、二十八歳の母を残して他界しましたが、残された家族四人が生涯にわたって生活していけるだけの財を父は成していましたので、生活の心配はありませんでした。多感な娘時代を大邱という大陸で過ごしたせいでしょうか。大地の土の匂い、荒野に咲く花々、深夜の圧倒的なまでの星空、そして市場の雑踏の中から聞こえてくる民族楽器の調べなどに、とても郷愁を感じるのです。
一日一枚描き続けて
小さい時から絵が好きで、一日一枚絵を描くことを六歳で経験しました。それから一日一枚絵を描き続けました。絵が私の生活の第一義です。りんごがあってもそれを描かなければ食べない。魚が出てきても魚を描いてから食べる、そういう習慣としました。その後、六年生の時に描いた静物画が評判となり新聞に出ました。
フランス総領事から認められて
小学校一年生の頃は、毎日学校が終わると校庭でスケッチしていました。小学校六年生の時、私が描いた静物画が昭和の御大典で天皇陛下に奉納されました。そして十二歳の時、大邱公立高等女学校に進学、五年生の時、第十二回朝鮮美術展に「裏通り」が入選しました。この展覧会は、当時の日本でいうと、朝鮮・満州における帝展(当時日本で最も注目を集めた唯一の官展)でした。この「裏通り」が、朝鮮の民家がよく描けているとフランス領事館のドペール氏の目にとまり、譲ることとなり、お礼に油絵具一式をいただいたのです。ドペール氏の帰国に際し、一緒にフランスに留学しないかというお誘いがありました。当時日本は準戦時下にあったので憲兵隊に相談に行ったら、是非フランスに留学するよう勧められました。しかし母は娘が女スパイにされるのではないかと心配し、結局留学はお断りしました。そして、一九三四年三月、大邱公立高等女学校を卒業し、十七歳で単身家族と離れ、女子美術専門学校師範学科西洋画部に入学するため、生まれて初めて日本の地を踏みました。
独立展に初入選
女子美の卒業制作の時には、面白いことがありました。はじめは卒業制作のために、妹をモデルにして六〇号の作品を描いたのですが、ちょうど独立展が三月にあって、友達も出すから出品しないかと誘われたのです。そこで卒業制作用に描いた作品を「沼地風景」という抽象画風の絵にして出品したら、それが初入選してしまったのです。
そうなると今度は卒業制作がなくなってしまい、慌ててそれから二日がかりで人物画の卒業制作を描き上げました。独立展に初入選ということで「朝日新聞」にも“入江一子”と大きく取りあげられました。その時、私の出品作は、すでに著名な海老原喜之助さんの隣という恵まれた場所に展示されたのは良かったのですが、会場で女子美の先生とばったり会ってしまい、「卒業制作はどうしました」と言われ、困って逃げ出してしまったという笑うに笑えない思い出も、学生時代の印象として残っています。
青春時代の杉並
阿佐ケ谷の駅から徒歩五分の住宅街に、私のアトリエ兼作品を展示した美術館があります。美術館には、私のライフワークとも言えるシルクロードの旅をスケッチした絵を多数展示していますが、その入口に「卒業の日に」という、青春時代に描いた一枚の絵画が飾られています。
韓国の南部の都市、大邱で生まれ育った私は一九三四年、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学するのに伴い、初めて母国・日本に足を踏み入れました。当時、校舎が本郷菊坂町(現・文京区)にあったため、近くの下宿屋に叔父と同居していました。
一九三五年一月、大学が現在の杉並区和田に移転するのと同時に、私も青梅街道の北、高円寺駅近くのアパートに引っ越しました。大学には寄宿舎もありましたが、自由を求めて、敢えてそこには入らず、毎日三十分位の道のりを歩いて通学していました。
その頃の街の風景は、今とは随分異なります。省線(現在の中央線)はまだ高架になっておらず、あちこちに踏切がありました。大学の周りにはのどかな野原が広がり、青梅街道には荻窪から
角筈までチンチン電車(路面電車)が走っていました。
授業を終えると、仲間と共によくこの電車に乗り、新宿まで美味しいおそばを頂きに行ったものです。
在学中の一九三六年に「二・二六事件」がありました。その日、東京は大雪に見舞われ、省線も止まっていました。歩いて大学に向かう途中に聞いた銃声は、もしかしたら事件と何か関係があったのかもしれません。全身、雪まみれになって大学に着くと、周囲は白一色の世界、スキーで通学してきた仲間がいたことを今でも鮮明に覚えています。
決して明るい時代ではなかったものの、楽しい学生生活でした。そして、一九三八年三月、卒業証書を手に高円寺通り近くの丘を歩いていた私は、そこで目にした素敵な洋館とその隣の柳の木に何故か深く心を奪われ、無我夢中でスケッチしました。その絵が冒頭に述べた「卒業の日に」です。
今はもうその洋館はありません。「省線」はその後、「国電」と呼ばれる時代を経て、高架線路が作られ、「JR」とアルファベットで表示されるようになりました。青梅街道を走っていたチンチン電車も姿を消してしまいました。
しかし、六十四年前に描かれたスケッチの中では、私が青春時代を過ごした杉並の一風景が今もなお、ひっそりと息づいているのです。
------- 二〇〇二年の寄稿文から
初めての個展(一九四一年)と嫩江で見た赤い夕日
昭和十三(一九三八)年、女子美を卒業してから大邱に帰ったのですが、大邱の女学校の後援により、幸運にも個展を開く機会に恵まれました。
すると校長先生が、「あなたは元気がいいから、満州(今の中国・東北部)のハルピンとチチハルで個展をしませんか」といわれ、名刺に紹介状を書いてくれたのです。そして叔父が奉天(今の中国・瀋陽)の商工銀行の頭取をしていたこともあり、奉天で個展をして、ハルピンとチチハルでは先生からいただいた名刺の人のところで個展をすることになりました。今考えてみると、驚くほど勇気があったと思います。
そしてハルピンからチチハルに電話してみると、市公署の偉い人が、「なるべく早く来て下さい」と言うのです。水彩画や額縁をどうやって持って行ったのか覚えていませんが、とにかく荷物を持ってハルピンからチチハル行きの汽車に乗りました。ハルピンからの汽車は、釡山から出てロシアを通ってヨーロッパに行く国際列車で、レールの幅が広軌で日本のよりは広いのが特徴です。汽車の中は、ロシア人や中国人ばかりで、日本人は誰もいません。大陸の人たちは、汽車の中でも食欲が旺盛で、その食べている姿を見て不思議な思いがしました。
ハルピンまでは豊かな緑が連なり、スンガリ、マジャコウなどがとてもきれいでしたが、ハルピンを出ると果てしなくコーリャン畑が続く他には一木一草もない大平原です。そこに雄大な夕日が落ちていきます。まさに〝赤い夕日の満州・蒙古.の言葉のとおりの素晴らしい風景の中を汽車は通って行きます。
しかし、私は呑気というか、命知らずだと思うのは、その汽車はチチハルに行くのではなく、満州里線の国際線でロシア方面に行ってしまうことに気が付かなかったのです。不安になって車内の人に聞いてみると、「チチハルは
昂昂渓で乗り換えないと行きませんよ」と言うので、急いでたくさんの荷物を持って降りたのです。
あたりはすっかり暗闇に包まれていました。
周りは中国人ばかりで、言葉も分かりません。ところが運良く、そこに日本人の男性が一人いたのです。そこで、これから訪ねようとしている
木金さんという人の名前を言うと、偶然にも知り合いだったらしく、「木金さんは今この町に来ている」と言うのです。その男性は急いで追いかけてくれたのですが、残念ながら車で帰ったばかりでした。結局、その人がチチハルの木金さんの家まで一緒に荷物を持って送ってくれて、どうにかチチハルの龍江ホテルで個展をすることができたのです。そして個展では木金さんが作品を売って下さったりして大成功を収めることができたのでした。
満州の空は、抜けるような青色です。
嫩江という川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で真っ赤に染まり、そこにジャンクのような船が一隻浮かんでいます。その風景は生涯、忘れることができないほど、たいへん感動的なものでした。
その時、これはとても絵に描くことはできない。写真にさえ写せない。その風景の前では何もできないと思ったほどでした。それだけに、かえってその色彩が目に焼きついているのです。そして、この「嫩江の赤い夕日」が、私をシルクロードに駆り立てる大きな出発点となったのです。後にイスタンブールの真っ赤な風景に出会うのですが、嫩江の夕日を見てからそこにたどりつくまで長い年月を必要としたのでした。
終戦引揚げの記
終戦より早や三十年。月日のたつのは早いものだと驚いております。
私は、昭和二十年のお正月ごろは、東京でがんばっていました。毎日空襲つづきで、だんだんあちこちが焼け跡になってまいりました。生きのびていくのに精一杯で、絵の勉強どころではありません。このまま死んでしまっては、母や妹に申しわけない、どうせ死ぬのなら、親のところで一緒ならあきらめてくれるだろうと思いまして、朝鮮に帰ることに決心しました。
さて、帰ると決心したものの切符を手に入れるのが大変なこと。空襲の暗闇のなかを、列車で下関に向いました。関釡連絡船は、機雷のため毎日出航できず、桟橋は人であふれていました。三日くらい待たなければ乗船できず、その間、列をはずしてはフイになってしまいますので、飲まず食わず。頭上では敵機の来襲で爆音がとどろき、生きた心持がしませんでした。やっと大邱にたどりついたときは夢遊病者のよう。まるで乞食の風様でした。四十度を超える熱がつづき、四十五日後にようやく意識をとりもどしました。それでも親子一緒にすごせる幸せにどのようになっても安心でした。
そのとき、女子商業学校から、勤めに出てくれないかと誘われました。絵を描くことができないので朝鮮までのがれて来たのですから、それでひとさまの役にたつことができればと、教員という職に初めてつきました。
学校に勤めたといっても校舎は軍隊にとられ、忠霊塔の下で朝礼をし、出席をつけ、紐や大砲の玉をつくる工場に生徒を連れて行く毎日でした。「八月十五日」は工場にいました。町のようすがどうもおかしいと思いました。銀行や郵便局には人が長蛇の列をつくっていました。同じ学校の朝鮮人の先生は、朝鮮の生徒を集めて、朝鮮語のけいこを始めました。軍隊は剣も銃も持たないし、警察もあてにならないし、朝鮮の人が家に押し入ってきますし、いままで意識していなかった〝外国にいたのだ.ということをひしひしと感じました。ほんとうに悲しくなってきました。早く内地に帰りたいと思いました。
そして、リュックサックひとつ背負い、貨物列車に乗り込んだのです。覆いがないため空が見える列車の床にすわりこんで、去っていく大邱をふりかえりながら考えました。長い間かけて積みあげてきた何ものもすべて一挙に失ってしまいました。“物質は一瞬にして無になる”ことを悟り、人間には生きる力と、健康がいちばん大切なことを強く感じました。
さて、これから内地に帰っても、住む家もなし。とりあえず、父の郷里の山口県須佐に帰ってみようと思いました。釡山では、荷を少なくするため、振袖など晴着を燃やす人もいて、配給された毛布はたくさん捨ててありました。それでも博多港に上陸したときは、安心したせいか、リュックサックが急に重く感じられました。郷里の叔父の家は敷居が高く、入るのに勇気がいりました。すでに末の妹も待っていました。突然に家を失って押しかけてきて、どんなに迷惑でしょうと、辛い思いがしました。毎日、野や川に行き、よもぎやせりを摘んできたり、また、山道を何里も歩き、わずかな品物とお米を交換してきました。そして、動けば食欲がでますので、横にもたれたままで、消耗しないようにと考えました。
------ 一九七五年の寄稿文から
“物質は一瞬にして無になる”
ことを悟り、人間には生きる力と、
健康がいちばん大切なことを
強く感じました。
太陽はいつまでも変わりありません。
太陽とともに頑張りたいと思います。
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