『101歳の教科書 シルクロードに魅せられて』
入江一子――立ち読み

【随時更新予定】




第4章

一〇〇歳を超えて現役続行中


2009年ニューヨークで個展を開催!!

九十三歳の挑戦

 九十三歳の時、まわりの皆が反対する中、ニューヨークでの個展を実現する。二〇〇九年十二月二日~十五日まで、日本クラブの日本ギャラリーにて「シルクロード色彩自在」展が開催された。開催にあたり、入江一子は次のような挨拶をしている。

「シルクロードは鮮烈な色彩のパワーにあふれており、大地・自然の恵みやバザールの賑わいは私に生きるエネルギーと情熱を与えてくれました。ニューヨークの方々にも、現地で私が得たのと同じ感動を共有していただき、同時に、シルクロードの悠久の歴史を体感し、山岳地帯や砂漠に暮らす人々の平和についても思いを寄せていただければ、これ以上の幸せはありません」




日野原重明先生とのご縁

◎二〇一二年、日本橋三越個展でのギャラリートークから

入江さんは、現在も大作を描く気力を持っておられます。
これからも作品を作り出し、
その中で大きなエネルギーを感じるでしょう。
一〇〇歳はゴールではなく、関所。
ゴールはもっと向こうにある。
一〇〇歳記念の展覧会をこの三越でやりましょう。
その時、私は一〇五歳です。
日野原重明




三越で一〇〇歳記念個展開催。
再び日野原先生との対談を実現!!

 日本橋三越本店にて開催され、好評のうちに終了した「百寿記念入江一子自選展」(二〇一六年十月二十六日~十一月一日)。その初日に、聖路加国際病院名誉院長・日野原重明氏をゲストに招いた対談形式のギャラリートークが行われ、会場は立ち見が出るほどの賑わいを見せた。

 入江氏と日野原氏は共に山口県出身。三年前に亡くなった日野原夫人・静子さんが入江氏の師である林武に絵を習っていた縁などもあり、今では「恋人ではないけれど心がひとつになっている」ほどの親しい間柄だそうだ。


 対談では、同展の出品作をどのように選んだかといった話や、入江氏のシルクロードへの想いなどが語られた。また、「今後も制作意欲は変わらないままですか」という日野原氏の問いに対し、入江氏が「一〇〇歳の坂を越えて、体力に不安が出てきました」と言う場面も。しかし、日野原氏の激励を受け、最終的には「この人の絵は衰えた、もうダメだ、とは思われたくない。……先生に負けないように頑張ります」とさらなる意欲を表明した。
 二人は二〇一二年一月にも同会場にて対談を行っている。その中で交わされた「またここで再会しましょう」という約束がこの度果たされたことになる。入江氏と会うからお洒落をしてきたという日野原氏。今回もまた「五年後にここでデートをしましょう」という新たな約束が聴衆の前で交わされた。
 今年一〇〇歳を迎えた入江氏と一〇五歳を迎えた日野原氏だが、言葉を交わす様子は驚くほどに若々しい。お二人の若さの秘密は、未来の約束とそれを果たそうという気力の強さ、そして何よりお互いの存在にあるのかも知れない。

――――「美術の窓」(生活の友社)二〇一七年一月号


追悼・日野原重明先生
ご縁のありましたことを感謝して
入江一子

 七月十八日午前八時頃、朝日新聞社から日野原先生が亡くなられたことをお知らせ頂き、驚きとかなしみの気持ちで一杯でした。先生にご親筆を頂きましたのは二〇一七年一月二十六日でした。
 「明日(一月二十七日)から上野の森美術館で展覧会を開催されると伺っております。私も、是非伺いたいと思っておりましたが、年始に転んで以来体調が思わしくなく、伺うことはかないませんが、入江さんの展覧会は成功間違いないと確信しております。私は、養生をして五年後の入江さんとの再会に備えたいと思っております。梅は開花しましたが、まだまだ寒い日が続きます。どうぞお身体ご自愛くださいますよう。次回お会いできますことを楽しみにしております。」
 数多くお便りを頂きましたが、これが最後のお手紙になりました。
 昨年(二〇一六年)十月二十七日、日本橋三越本店で「百寿記念入江一子自選展」を開催しました折、先生と二回目のギャラリートークをいたしました。四年後の東京オリンピック・パラリンピックにも参加し、五年後、先生百十歳、私百五歳。お互いに元気で、またここで対談をしましょうと、皆さんの前で日野原先生とお約束いたしました。
 残念でたまりません。
 思えば先生とお知り合いになりましたのは十年位前の対談でした。先生とは山口県萩市の同郷であり、静子夫人は若い頃、恩師林武先生に絵を教えて頂いたことで林武先生の後援者でもありました。そのようなご縁を感謝しております。
 日野原先生の様に「人のために一生を捧げた」ことに感激いたします。「自己中心に生きなかった」ことが、百五歳の立派な生き方として最期を迎えられたと思います。これまでの大変なお力添えを感謝し、残り少ない人生ですが、気力で体力をカバーしてがんばります。
 先生に感謝し幾重にも御礼申しあげます。

――――「新美術新聞」(美術年鑑社) №一四四八二〇一七年八月二十一日号




大村智先生とのご縁

◎入江一子先生の生き方

大村智

 女流画家の大御所の一人である、入江一子先生が、二〇一六年五月に一〇〇歳を迎えられました。私は女流画家協会展のオープニングパーティに毎年招かれて行きます。同会の最長老であり、最初に挨拶されるのが入江先生で、実に明晰にお話しされ、敬服するばかりです。女子美術大学は、二〇一三年十一月、最初の「女子美栄誉賞」を入江先生に授与させていただきました。
 山口県萩の出身、生家は毛利藩士、維新後は海外で貿易商を営んでいた父上の関係で、一九一六年、韓国の大邱(テグ)で生まれ、少女時代を過ごされた入江先生。物心ついた時から絵を描くことが大好きで、小学六年生のときに描いた静物画が昭和の御大典で天皇に奉納されるなど早くから才覚を現され、女子美術大学に入る時、初めて帰国されたとのことです。
 現在のお住まいである東京・阿佐ヶ谷の「入江一子シルクロード記念館」は、入江先生のアトリエ兼ギャラリーとなっています。女子美術大学を卒業した当初は、日本の石仏に親しみを感じて全国を取材して歩いていらっしゃいましたが、台湾に行く機会があり、日本の石像とは違うおもしろさを感じ、その後中国の敦煌、インド、パキスタン、モンゴルと石仏を追っているうちに、シルクロードにはまっていったそうです。五十代半ばから三十年間にわたり、三十余ヶ国を訪ねたといいますから驚くばかりです。
 ある雑誌に載っていたのを読んだのですが、生涯の絵の師匠である林武先生からいただいた「君がどこで絵を止めるかがわかれば、それは君が絵がわかったということです」という手紙が描く上での信条となっているそうです。

 お会いする度、口癖のように「一〇〇歳まではいい絵を描きたい」という入江先生の情熱と輝きは、失うことなく続き、とうとう実現されたわけです。
 二〇一五年五月八日まで、神奈川県立近代美術館葉山で開催されていた「日韓近代美術家のまなざし ――『朝鮮』で描く」展に、当美術館(韮崎大村美術館)所蔵の入江先生の「洗濯(韓国)」(39頁)という作品が出品されました。この展覧会は、二十世紀前半、日本の統治下にあった朝鮮半島において、日韓の作家達が生み出した作品と交流を探る初の大規模なものとして、全国六会場を巡回しました。  この展覧会紹介の記事が二〇一五年四月十五日付けの日経新聞で取り上げられた際、やわらかな情感に満ちた、「洗濯(韓国)」が写真入りで紹介され、大変嬉しく思いました。
 入江先生の精力的な制作発表はまだまだ続きます。この度の上野の森美術館で開催される「百彩自在」と題した展覧会会場にて、またその美しい色彩が織りなす大作を拝見するのを楽しみにしたいと思います。

――――「入江一子一〇〇歳記念展」(二〇一七年・上野の森美術館)図録序文より













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