『101歳の教科書 シルクロードに魅せられて』
入江一子――立ち読み

【随時更新予定】




第2章

林武先生との邂逅


林武先生からの手紙


 女子美卒業後、独立展初入選の時から林先生に出品作品の批評を受けておりました。初出品より十回目になった昭和二十四(一九四九)年、「二人少女」の一点しか入選できなかったので、先生から励ましの手紙をいただいたことがありました。
 「僕が非ボス的性格で公正主義の性へき(癖)があるのも損かも知れない。来年は二点は確実と思う。あの分で勉強すれば、どんな場合でも乗りきれると思います。まだ、人の手だすけや運不運では実力がない事というより他なく、一年や二年の差より一生の問題の方がどんなに大切だかを思うと、この運命をよりよく生かして下さい。
 具体的には……一審は三点(二人少女、髪すき、十二号位の少女像)……、ママ局二人少女であり、若し君が中途で止めて置く手ママが判れば、君が近々絵が描ける事になった事になるのです。
林 武」



 入江一子君は今や女流美術でトップクラスにたって油ののった仕事をしている。
 彼女は、具象と抽象との線を混然と調和した画面をつくりあげて、きわめて自然に無理なく人々に訴える。
 僕は彼女の長い間の苦心と努力と勉強がみのったことを非常によろこんでいる。
 是非一度見て頂きたく推薦するものです。
林 武

(一九七一年、個展案内状に寄せられた林武の紹介文)

林先生と猫のミーちゃん

 猫という生き物は、私、最初は好きでもなんでもなかったのです。
 ところが、林先生宅では、犬や猫をいつでも飼っておられ、奥様は特に猫がお好きでした。
 弟子たちの中に、私と同じように動物にあまり関心のないIさんがいました。
 先生が中野の新井町におられたとき、子犬がたくさん生まれました。先生は困られて、出入りしている弟子たちに飼ってくれるように頼まれました。
 貰われていく子犬には、その犬を先生が描いた色紙と、かつお節がついています。
 門下生はそれぞれいただいて帰りました。
 Iさんは色紙とかつお節はカバンに入れ、近くの十字路で、犬を放してしまったのでした。
 犬は、すぐに家へ戻ってきました。
 奥様は「この犬、どうしてここにいるのかしら」といわれて、とても困ったご様子でした。
 やがて、事実がわかってIさんは先生宅の出入りを止められました。
 これは、先生の弟子たちの間で、かなり知られている話です。
 先生が渋谷の松濤町に移られてからは子猫がたくさん生まれました。
 一九七〇年の春、私は台湾の屛東のびょうに写生に出かけ暫く日本を離れました。すると先生は、私の帰国を待っておられたご様子でした。それは「子猫を、もらってほしい」ということだったのです。
 私は猫の好きな人にそのうちお世話すればいいという心づもりで、承知しました。
 すると、翌日、先生が大きな車で、子猫二匹をかごに入れて、私の家へ届けにこられたのです。
 白と黒のぶち模様の子猫と一週間ほど過ごすうちに、その可愛らしさにまず母が「私がせわをする」といいだしました。
 「器量のよいほうを、家に残す」と母はいって、もう一匹を知人に差し上げました。
 この猫たちにも、先生の色紙がついていましたので「破門になったIさんの子犬のようなことになっては、申しわけない」などと、母と笑いながら子猫を育てました。
 名は、ミーとつけ、「ミーちゃん」と呼ぶとニャォと返事をしてくれます。
 性質のおっとりとした毛並みのつややかな猫になりました。
 昭和五十年、林先生が他界されました。この年に私の母も亡くなり、あまり動物好きでない私と猫との辛抱の暮らしがはじまりました。
 毎年、夏は鎌倉のアトリエで制作をするので、猫もつれていきました。
 初めて鎌倉の家へ連れていったときには心細くなったらしく「ニャォ、ニャォ」鳴きどおしで、いつのまにかいなくなりました。
 私は、とても慌てました。
 猫がそばにいてこそ、カンバスに向かう意欲がわいてきたのです。
 アトリエでは、猫は知らん顔で少しはなれたところで昼寝をしていますが、ちゃんと私の絵を見守ってくれているのです。ごく自然に猫が絵のなかにいるのです。
私は、わざわざ届けてくださった先生にも申し訳なくて、猫を探しに駆けまわりました。 近くのマンションの前で遊んでいた子どもたちにも「猫、知らない?」と尋ねました。 猫の毛並みや大きさを伝えて「見かけたらぜひ連絡してね」と、私の電話番号を教えたりしました。
 日が暮れるまで探しまわり、疲れ果てて帰宅したとき、電話のベルがなりました。
 さきほどの男の子からです。
 「猫、いたよ」というのです。嬉しくなって「ありがとう、どこにいるの」と尋ねましたら、「あっちへいっちゃった。もう、いない」という返事です。
 これにはがっかりしました。
 気がついてみましたら猫とのくらしに私はすっかり満足していたのです。その猫がいなくなったのですからがっかりです。
 すると、二階で猫の声がします。夢ではないかと階段を上ってゆきました。
 なんと猫は私のベッドの下から出てきたのです。気もちよさそうにあくびや背のびなどしています。「あー、よくねたな」というようにです。
 猫の背中をそっとなでていると、先生の声が聞こえてくるようでした。私は先生の弟子として絵をしっかり学ばせていただいたことを改めて意識しました。
 とにかく、猫が見つかり、ほっとした夏の日のことが心に残っています。
 相変わらず、私はシルクロードの旅を続けていましたので、留守中はアトリエへ勉強にくる私の生徒に猫の世話をしてもらいました。
 生徒たちは交代で日記帳をつけて当番をしてくれました。アジが好きな猫ですので、焼いたアジをたくさん冷蔵庫にいれ、牛乳も用意しました。
 当番の生徒が家へ入ると、猫はさびしがって足元にからみつき帰さないようにしたそうです。
 私もまた、旅先のどこの国でも、猫と人と暮らす風景が目に刻みつけられ、猫のミーが気になっていました。
 飛行機が空港に到着したとたん、留守中の猫が無事かどうかの心配の気分でいっぱいです。
 家へ私が入ると、猫はよろこんで背中を床板にすりつけてころげまわります。私は、やれやれと安心し、猫との結びつきというものを深く感じました。
 やがて、猫が家にきて十五年経ち、獣医さんに「人間の歳でいえば、九十歳を過ぎています」といわれたときには、猫のミーの足元も覚束なくなっていました。
 そのころ、私は東トルコにでかける予定があり、猫はかかりつけの獣医さんに預けていくことになりました。その医院からのかごが届けられた日、猫は預けていかれるのが気に入らなかったのでしょう。ほんとうに眠るように死んでいきました。
 その日が、偶然、林先生の命日でした。
 上野の藝大での先生の銅像除幕式の日が、私の猫のささやかな告別式でした。


出世作となった「魚」

 この頃は暗く深い色調による力強い作品を多く描いていました。
 「魚」という作品は、林先生から出品作を何回も何回も描き直す様に指示され、入選はしても賞をなかなか取れなかった時、「清水の舞台から飛び降りた気持ちで新鮮な絵を描け」といわれて描いたものです。今までの作品から余分なものを削ぎ落とし、一歩抜けだしたように思います。私の出世作として、この作品でやっと一段階登ったという感じです。




風こそ夢があり、ロマンがあり、
そこを私は描きたいのです。
太陽の沈む時の一瞬の輝きを、一瞬一瞬が
まさに太陽との戦いであります。
この太陽の落ちて行く瞬間のひらめきを
描き表すことが少しでも出来たらと
願い続けています。









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