『101歳の教科書 シルクロードに魅せられて』
入江一子――立ち読み

【随時更新予定】




第3章

石仏巡りからシルクロードの旅へ


石仏によせて

 京都・深草の五百羅漢、奈良の浄瑠璃寺周辺の磨崖仏、兵庫県北条の五百羅漢、或は九州の装飾古墳、などをテーマに描いた石仏たち。
 私の石仏は、宗教につながるものでなく、石の肌あい、表情の面白さにひかれているのです。


 美術雑誌で、金元竜という方の書いた『古代韓国の石仏』を読みましたが、「慶州附近の石仏は、慶州の東、平野の中に横たわる南山に集っている。また大邱の北、八公山の北側に廻ると、花崗岩壁の所々に浅い自然小洞が出来ている。その一つを切り拡げ、中に阿弥陀座像、菩薩立像を安置したのが、一九六二年に発見された軍威の三尊石窟である。」と書かれていました。
 この様に立派な芸術品が身近にありながら、その良さを観賞し得ず、残念に思いました。邱友会でも韓国訪問旅行も行われましたことと思います。私も日韓親善美術展に出品して、その機会を考えております。
 黄土色をした大陸の風景が目の前に浮かびます。


嫩江のんこうの面影とイスタンブールの朝焼け

 中国の西安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、東方のシルクロードの終点ともいえるところです。
 六本のミナレット(祈りの塔)のあるブルーモスクやアヤソフィア、ハギヤソフィアやトプカプ宮殿などがあります。人々の服装もかなりヨーロッパ的な感じになってきて、東洋と西洋を結ぶシルクロードの接点としてエキゾチックな魅力に溢れた街です。
 イスタンブールでは、ボスポラス湾に臨んだヒルトンホテルに宿泊したのですが、朝、窓が真っ赤になっているのです。火事かと思って驚いて飛び起きると、目の前のボスポラス湾が真っ赤に染まり、モスクがシルエットになって、素晴らしい風景が広がっていました。その赤い朝焼けの空を鳥の群れが飛んでいきます。
 長年、チチハルの嫩江に血潮を流したような景色がずっと目に焼きついていたのですが、この時、嫩江の面影とボスポラス湾の朝焼けを重ね合わせることができたのです。
 ボスポラス湾の刻々と変わりゆく自然の美しさを作品にしようと、スケッチブックに色を重ねていきました。この絵を描くことで、シルクロードへの憧れをより深くすることができると思ったのです。
 こうして、ホテルの窓から見たボスポラス湾とモスクのシルエットを描いた「イスタンブールの朝焼け」の絵ができました。
 そこには、いつも心の中に焼きついていた嫩江の美しさと同じ色彩がありました。
 「嫩江の赤い夕日」から三十五年の歳月が過ぎましたが、感激は同じでした。あの時は絵に描けなかった無念さがありましたが、今回はしっかりと画面におさめることができたのです。
 嫩江は夕日でしたが、この朝焼けの真っ赤な色彩に運命的に出会ったことで、この作品を描くことができました。
 思えば私にとってのシルクロードの旅は、この嫩江の色彩を追い求めることから始まったともいえるのです。



中国大陸の紅い夕焼けから、トルコの真っ赤な朝焼けまで。
どこまでも美しい光と色を追い求めました。



「ジーエルフナー広場(マラケシュ)」

 ジーエルフナー広場には、色とりどりの品を積んだ店が開き、さまざまな大道芸人が集まっていて客を呼びます。踊り子、アクロバット、奇術師、ヘビ使い、そのほか世にも奇妙な連中がやってきて、芸を披露しては祝儀をもらっています。ここでも、日除けに使っているパラソルが花が咲いたように美しく、私はスケッチしたいと思いましたが、あまりにも人が多くて描けるような状態ではありません。
 ふと見ると、少し高いところにチャイハナを見つけ、私は店に入りました。するとどうでしょう、広場が一望に見渡せ、パラソルの美しい絵模様が見えます。店の中ですから、入ってくる人も少なく、やっと、私はここで落ち着いて絵を描くことができました。楽隊の音が聞こえてくる中で、私は音楽のリズムに合わせるようにスケッチを始めました。同行の人が私の色鉛筆を削ってくれたので、私は色鉛筆、アクリル絵の具などを使って広場を描くことができました。一〇号の大きさに完全にスケッチをして、後に二〇〇号の「ジーエルフナー広場」として完成させました。現場で描き上げた作品は、動きのある雰囲気をうまく表現できたと思います。


パラソルや人の間を、
風が吹き抜けていくような
動きのある構図に工夫を凝らしました。



五十三歳からはじめたシルクロード取材

 敦煌に入った時の第一印象は、やはり都から遙かに遠いということでした。敦煌は昔はシュウと呼ばれた時代があったように、その名のごとく砂漠の街です。しかし、街の中では畑も耕されており、街路樹のポプラもすくすくと伸びています。現在の敦煌は、清代の十八世紀につくられた街で、それ以前の古い敦煌、つまり漢や唐時代の敦煌は、今の敦煌から三キロ隔たったところにあり、すっかり土の中に埋まっているということでした。
 ポプラ並木を吹きぬける風にのって、「東方紅」の歌が聞こえてきます。「東方紅」の歌は文化大革命の歌ですが、私が行った頃はちょうど四人組の文化大革命を讃えている時だったので、どこに行ってもこの歌が聞こえました。当時はみんな勤勉で立派で、今のような民主化された状況ではなく、服装も地味で、私たちが招待された席で、「乾杯」を連発しながら四人組を讃えるという時代でした。
 夕食後は夜空の下で、敦煌を訪ねて四度目という石嘉福先生を囲んで、どこなら撮影できるとか、明日の石窟参観の予備知識をうかがいました。
 いよいよ積年の憧れである莫高窟に到着しました。敦煌は、まさに“砂漠の大画廊”です。ここは、砂漠にあって永遠にしおれることのない鮮やかな花であり、幾年月も砂漠の中の石窟へと往来した人々を夢中にさせてきた場所です。敦煌の莫高窟は、鳴砂山の東麓、礫岩の断崖に掘り開かれたもので、南北の長さ約千六百メートル、岩壁の高さ五十余メートルです。四世紀から十四世紀まで、約千年の歳月をかけて次々に掘られたもので、今日、整備されている石窟は四百九十二窟です。これらの石窟を二日間にわたって見学しました。
 塑像、壁画がそれぞれの時代の特色を表し、美術史上貴重なものであることは言うまでもありませんが、どの石窟の天井にもたくさんの飛天が描かれています。千くらいでしょうか、飛天だけ見ても楽しく、私は三百二十窟の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても描き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないので、男性の通訳が外で見張りをしています。しかも、中は真っ暗で、本来は、外国人には模写はさせないのですが、懐中電灯を明かりとして、二時間かけて飛天を模写させてもらいました。三階もある莫高窟の壊れかけた木の階段を、リュックサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした死闘の結果、二〇〇号の「敦煌飛天」が出来上がったのです。


現地の臨場感

 シルクロードの写生旅行をはじめたのは、日本と中国の国交正常化から六年後の一九七八年に、日中友好美術教育訪中団のひとりとして北京や山西省大同市にある雲崗石窟をみてまわったことがきっかけでした。描きたいモチーフは尽きません。日本に帰ると、現地でパステルや水彩で描いたスケッチと、その場の臨場感をアトリエに持ち込みたいため、録音機でとった街のざわめきや人々の話し声、民族音楽などのテープを流しながら、大作に挑みます。



「トルファン祭りの日」

 遠近法により三人の女性を中心に集める構図にするため、実際周りに多くいた楽士たちは構成上、背後に押さえて描きました。
 ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。どう棚の下のウイグルの人々の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。それはなんと、真夏の四十度を超す灼熱の暑さの時だと聞いて驚きました。それでもついにその機会に恵まれて、一九八〇(昭和五十五)年八月七日に訪ねることができたのです。 途中、上海で宿泊した上海タイホテルは、コウコウの橋の近くだったので、黄浦江のジャンクなどがある、昔からの思い出の場所を写生することができました。上海からさらに中国民航で六時間、ウルムチに到着しました。「」と面白い漢字で書かれた空港が目に入った時、いよいよ西域に来たという感じがしました。
 ウルムチは中国西北の新疆ウイグル自治区にあり、天山山脈の北麓に位置し、標高は八百メートル。緑の多い爽やかな、日本でいえば軽井沢のようなところです。ウイグル語で「美しい草原」とか「美しい牧場」を意味します。
 新疆は古くは西域と呼ばれ、二千年以上も前から中国の絹の隊商が往来し、東西文明が交わり、華やかな文化が咲き誇りました。また、古来より幾多の興亡が繰り返され、民族のつぼとして、現在でも新疆ウイグル自治区にはウイグル族をはじめ、漢、カザーフ、モンゴル、カイ、キルギス、タジク、ウズベク、タタール、グアル、満州、ダフール、ロシアの十三もの民族が住んでいます。


 朝早くホテルから出てみますと、羊が草を食べている場所に、朝焼けが美しく照っていたのが印象的でした。
 ウルムチを朝出発し、摂氏四十度のゴビ砂漠を半日ぐらい車で移動して、トルファンに着きました。この日は年に一回のお祭りという幸運に恵まれました。昼間の猛暑とは逆に夜は三十度まで下がり、招待所の中庭の葡萄棚の下には涼気さえ漂っています。
 そこでは中近東特有の弦の音色の中、ウイグルの歌舞団の踊りが始まっていました。私はこの葡萄棚の下の踊りを描くためにここに来たわけで、その様子を一心不乱に描きました。踊りが終わっても、その感激をもっと描きつづけたいと思いました。ホテルの部屋の電気では暗いため、照明の明るい洗面所でその続きを描きました。そして、翌朝も早く起きて葡萄棚の下で葡萄を描きつづけました。
 こうしてスケッチはほとんど完成しました。
 そして、個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで二〇〇号のキャンバスに描きつづけました。踊りの躍動感と雰囲気を出すことと、たくさんの人々と葡萄棚を構成することに苦しみましたが、このような絵をどうしても描きたいと思って出かけたわけですから、私のすべてを注ぎ込んで完成させました。こうした苦心の末、「トルファン祭りの日」の絵は、出来上がったのです。


今でも、歌が聞こえてきます。異教の人びとの幸せと
色彩に満ちた祭りの光景を描きたいのです。



スークーニャンシャンの青いケシ」

 中国の成都よりチベットに向かうスークーニャン山麓に青いケシの花が咲いているという話は、ずっと以前から聞いていました。季節は七月下旬の頃で、しかも標高四千三百メートルという高地にあるために、それを見るためには、テントでの宿泊を二泊もして山に登らなくてはならないというので、とても自信がありませんでした。
 私が登山するには馬に乗って行くしか方法がないのですが、それでも青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。ガイド役に植物にくわしい先生がつき、現地では、もし落ちそうだったら添乗員が私を馬に乗せていってあげるというので、その言葉を頼りにしての決心でした。
 一九九二年七月。まずは中国大陸に渡り、上海からの出発です。上海では翌日の早朝、ホテルの近くの露店などを散策しました。久しぶりに訪れた上海が、ビルの林立した大都会になっているのには驚きましたが、ホテルのそばの路地には、昔のままの中国が残っていました。七月の上海はものすごく暑くて、一般の人は外でみんな裸になって涼んでいます。ホテルは冷房があるので涼しいのですが、外はたいへんな暑さでした。相変わらず自転車の数の多さに驚かされます。
 上海からは空路で成都へ向かいました。成都に行くのは、山岳地帯に向かっているわけですから、かなり気候は涼しくなってきます。成都のホテルも上海に劣らぬ立派なホテルでした。近年、中国の大都会のホテルは確実に立派になっていくようです。翌朝、専用車でウォーロンまで向かい、臥龍の招待所で泊まる予定です。大都会はホテルが多いのですが、臥龍ぐらいの田舎になってくると、宿泊施設はほとんど招待所になっています。
 臥龍の招待所に向かう予定で出発したのですが、七月は雨が多い季節で長雨のために土砂崩れでバスが通れません。バタバタと音をたてて走る耕運機なら行かれるというので、仕方なくバスを捨てて耕運機に乗って一時間ほど進むことになりました。昼食のため小さなレストランに入りましたが、中国の田舎のレストランの中華料理はとても美味しいのに驚かされます。田舎では新鮮な野菜が豊富にあるため、かえって素朴な家庭料理のほうが美味しいものです。こうした旅先で食べる地方料理も私の旅の楽しみのひとつで、食文化を通して、その国の風土を体験することができます。
 臥龍に近づいていくと、今度は橋が落ちていて、耕運機も通行できない状態です。もう歩くよりほかに方法がなくなり、泥んこ道を一時間ほど歩きつづけました。みんな山登りの人たちですから装備は完璧です。ゆっくり歩きつづけました。山崩れで道が悪くても、途中には山アジサイやキツリフネ、エーデルワイスなどの花がたくさん咲いていて、慰められました。そうして歩いていると、途中、臥龍のほうから大草原旅行社のバスが迎えに来てくれました。みんなで大喜びしてバスに乗ると、一時間ほどで臥龍の招待所に着くことができました。  ほかの男の人たちは「臥龍にはビールがあるぞ」と言いながら、到着したらビールを飲むことを楽しみに歩いていたようです。結局、着いたところは土砂崩れでビールは届いていなかったのでがっかりしたようです。臥龍はパンダの里として有名ですが、また帰りに臥龍に寄ることになります。

 今度はバスでリーロンに向かうことになりました。途中は、やはり多くの花が咲いています。この一帯は高山植物がとても多いところです。日本でいえばユリ、ウメバチソウなどが咲いています。そして、途中のパーロウ山は標高四千三百メートルですが、その峠に青いケシの花が一面に咲いているではありませんか。みんな「やったあ」と、声をあげて喜びました。しかし、そこはまだ目的地ではありません。ちょっと見ただけで先を急ぎました。青いケシの花ばかりでなく、ほかにも黄色いサクラソウや黄金のサクラソウ、エーデルワイスなどの花が咲き乱れています。
 たどり着いた日隆は、最果ての地であり、山だけがそびえているというところです。まだここは解放されておらず、車が入れるのはここまでで道がないので、これから先は山を登るしかないわけです。このへんは中国といっても、完全にチベットの文化圏に入っている地域です。招待所はひどいものでしたが、チベットの山の中ですから、それでも私は一番いいほうだと思いました。ベッドはありますが、トイレはないので外に行かなければなりません。土地の人は、山にいるヤクに荷物を積んで歩くしか方法はありません。招待所だけはなんとか電気・水道は入っていますが、一般の民家には何もありません。


 日隆の村の本通りで石を積み上げた家がありますが、電気もないために室内は真っ暗で、水もないので風呂もなく、人々は薪や草を背中に背負って歩いています。
 まだまだ、世界中にはこういう生活をしている人も多いのではないかと思いました。私は日隆の招待所の入口で、日隆の建物やチベットのチャン族の人々の姿も入れて、一枚スケッチを描きました。
 翌日は、いよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かって行きました。日隆の標高は三千六百メートル。これからベースキャンプに行って、テント生活をします。周囲はいろいろな花が咲き乱れています。同行者の一人が植物の先生でしたので、花の名前などもよく分かりました。ツリガネニンジンやメタカラコウ、キクの仲間や黒いユリの仲間、ハクサンフウロ、アスターナ、ハハコグサなど珍しい高山植物の宝庫です。
 私たちはヤクに荷物をつけて、とにかく歩け歩けです。周りにはネジバナやシオガマギク、また、ハクサンフウロ、シオン、ハハコグサも咲いています。土地の人は、山にキノコがたくさん出るので、それを採っています。私は結局、ここから馬に乗って行くことにしました。馬子がついてくれるので安心です。馬はおとなしくて乗り心地はよいのですが、非常に高低の差のある山道ですので上下に揺れます。馬に乗って山を登っている間も、途中にハハコグサが星のように高原に散りばめたように咲き乱れ、ネジバナやシオガマギクなどもたくさん咲いています。もう標高は三千六百メートルから四千メートル以上まできています。
 途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れが見えて、村の子どもが世話をしています。民族衣装を着たチベットの娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の歌」を歌いながら、籠の中に草を採って歩いています。花はあまり採るといけないので、草だけを採っているのですが、なんとものどかな風景です。馬はなかなか利口で、山道の泥のところには下りないで、回り道をしてもよい道を選びます。
 四姑娘山麓のエーデルワイスなどの花が咲き乱れている中をチベットの少女が歩いています。そして、樫の低木林の間を登っていくと、とうとうタークーニャンの東麓の三千六百メートルのベースキャンプに着きました。テントでの宿泊です。翌朝はタークーニャン四千三百メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねての山登りになります。四千メートルくらいになると、カメラを撮るにも息が切れそうになります。突然、霧が流れてきて、見通しが悪くなってきました。その霧の中でも、ヨツバシオガマやメタカラコウ、オタカラコウなどの花が美しく咲いているのが見えます。
 あまりにも雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのが見えはじめました。はるばると訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい四千メートルの高地に、ようやく美しい青いケシの群生を見ることができたのです。感動を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ベースキャンプに向かって下りて行きました。


スークーニャンの歌」
スー  スークーニャンシャン
スークーニャンシャンクーニャン メイ
ニーメンハオシャンシャン ルージャン
カイ着大ジャダーホンホウ


ひたすら歩いてたどり着いた
四千メートルの高地に咲く幻の花は
幻想的なまでの美しさでした。



シルクロードの風景ばかりでなく、
民族が好きなのです。



日本人同士の方が垣根を作ります。
感動は、人種も国境も超えて共有できるものです。



「ホータンのまちかど(タクラマカン砂漠)」

 二〇一六年の独立展は、「ホータンのまちかど」二〇〇号を描きました。この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀のつづく小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。一〇号のスケッチブックを開いて二〇号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。なかなか思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生の手紙の励ましの言葉を思いだします。「君が中途で止めて置く手腕があれば、君が近々絵を描ける様になったと思います」。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かる様になりました。一番絵の状態が「良い時」が分からなくては、とりかえすことの出来ない状態になることもあります。「シルバーカー」を押しながら、制作をがんばっております。


なかなか思い通りに進まない時、今でも大切に保存している
林武先生の手紙の励ましの言葉を思いだします。











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